東アジアの風見鶏

政治と外交と軍事についてです。

WSJのシン・ゴジラ論評があまりにも的外れすぎる(ネタバレあり)。

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シン・ゴジラ、私も劇場で見ましたが、日本の官僚機構や国際政治や原発事故など、様々な意見を出させる映画ではありましたが、こんな論評がありました。

jp.wsj.com

結論から申し上げますと、私はこの論評にはあまり賛同しません。むしろシンゴジラを利用して、自分の政治的信条を述べているだけに過ぎないと思うからです。

1 片山教授の意見

前出の片山教授は「シン・ゴジラ」が「日本がんばれ、まだまだいけるとか、アメリカの属国でもあくまで日米手を携えてがんばっていきましょう」というような感情をかき立てたと話す。

私はむしろ、シン・ゴジラでは日本が米国の従属となって、「東京に核を落とさなければならない」という「屈辱」を、アメリカをはじめとした国際社会に強制されてまう、という皮肉を描きだしていると思います。

少なくとも私は片山教授のようにシン・ゴジラでは「日米手を携えて頑張っていきましょう」というメッセージ性よりも、アメリカに2度も原子爆弾を落とされた日本が、ゴジラの拡散を防ぐために、もう一度アメリカによって、しかも首都である東京に落とされてしまうという皮肉を、つまり「戦後の日本人が一番恐れることは何か」を、シンゴジラを通して如実に表現していると考えています。

2 記事内の書き手のコメント

放射能を吐き出すゴジラを前に政府は延々と対応策の法的根拠を議論するが、結局は攻撃ヘリコプターや戦車、F-2戦闘機などを投入することとなる。これは国民の意識に変化があったことを如実に示している。

ゴジラを前に軍事力を使うということが許される」ことが「国民の意識に変化があったことを如実に示す」のであれば、そもそも初代ゴジラの時点で、日本政府は自衛隊を使ってゴジラに攻撃を加えてますし(そしてゴジラは無傷だった)、「軍事力を使った! これは国民の意識の変化だ!」というのであれば全くの的外れの議論です。

むしろ私が印象に残っているのは、東京にゴジラが現れて、自衛隊ゴジラを攻撃しようとした瞬間に、逃げ遅れた人がいることが明らかになり、首相の判断で攻撃を断念するシーンです。いくらゴジラが首都に現れたとしても、自衛隊の攻撃を一般市民に向けるわけにはいかないという判断がこの作品の多義的な解釈を可能にする部分だと思うのです。

シンゴジラには様々なシーンがあり、多様な解釈ができる作品です。ですが上記の書き手のコメントはあまりにも短絡的すぎるとおもわれます。

3 結局は自己都合による解釈では?

おそらくこの記事の書き手は「ナショナリズムが広がる日本」という記事を書きたいという願望があって、そのダシにシン・ゴジラを利用したのだと思われますが、映画そのものの読み込みが甘いことが記事の随所に感じられます。

最後に、

 最新の「シン・ゴジラ」――「シン」には「新」「神」「真」などの意味があるが、製作者はどれを意図したかを明らかにしていない――は安倍晋三首相の下で生まれた新たなナショナリズムを思い起こさせる。安倍氏は国としてのプライドを取り戻すため、さらには自衛隊の海外での活動の拡大が可能となるよう憲法改正に向け努力を続けている。これに対し、中国など一部のアジア諸国は懸念を示している。

 もはや、シン・ゴジラ全く関係ないじゃん!